第4回 「新共和主義研究会」(2019年4月4日開催)

2019年4月4日(木)18:30-20:30 霞が関ビル33F 東海大校友会館 富士の間
今回は、広井良典京都大学教授をお招きし、ご講演いただきました。 小林正弥千葉大学教授、鳩山友紀夫顧問、首藤信彦代表が登壇しました。 <今の世界に対応できていない日本> 日本政治が沈滞と混迷に追い込まれている背景には、少子高齢化などの社会変容と同時に、日本がいまだに冷戦期秩序や高度成長期の成功体験にとらわれていて、激変する世界システム、自己最優先に切り替えたアメリカ、勃興する中国、IoTやAIがもたらす社会変革などに対応できていないことがあります。 アベノミクスの本質「強制成長」はもはや日本の諸課題を解決することができず、むしろ現実の体力を超えた成長路線は将来に禍根を残すだけであることが明らかになりつつあります。 <成長社会から定常社会へ> 現代の日本はまさに成長社会から「定常社会」へのパラダイムシフトを迎えつつあります。その中においてこそ、日本の政治改革は可能となります。今回、「定常型社会=持続可能な福祉社会」の提唱者でもあり、「人口減少社会という希望」「ポスト成長時代の福祉」などの著書そして科学評価や死生観まで幅広い現代社会研究を進めておられる広井良典・京都大学こころの未来研究センター教授より講演いただき、そして、ポスト成長社会における政治のあり方や課題について議論したいと存じます。
プログラム
1.開会: 小林正弥教授(司会)
今日の中心テーマ:定常社会・幸福公共政策
広井良典教授紹介
2.講演:「定常社会と新共和主義」(首藤信彦)
3.講演:「定常社会」 (広井教授)
4.質疑応答:小林正弥教授(司会)
【研究会の様子】
首藤信彦(共和バンド代表)
皆さんこんばんは。今日は第4回新共和主義研究会です。今回は、京都大学こころの未来研究センターの広井良典教授にお越しいただきました。日本社会がこれからどのようになるのかを考えるにあたって、「定常社会」の考え方や、世界中で関心が高まっている幸福を求める公共政策についてお話をお聞かせいただきたいと思います。
そして、同時に、今日は友愛政治とコミュニタリアニズム研究会で講師をしてくださった小林正弥先生に司会をしていただいて、今までの集大成にしたいと思います。最後に、鳩山先生からこの研究会の総括と、これからの社会はどうあるべきかをお話いただきます。
小林正弥(千葉大学教授)
今日もたくさんの方の来場ありがとうございます。本日は司会と解題を務めさせていただきます。
広井先生とは元同僚でございまして、先生のお話をよく知っています。学問的な観点から言いますと、2004年にCOEというプロジェクトを千葉大学で引き受けた際に、広井先生がヘッドで、私がサブとしてサポートしていたわけですが、その時のタイトルが「持続可能な福祉社会に向けての公共研究拠点」ということで、それぞれのアイデアを提示しました。今日のテーマである「定常社会」とかかわりがあります。この研究会でポジティヴ心理学などの話をしてきましたが、広井先生も研究をなされています。ご紹介するまでもございませんが、広井先生は福祉の第一人者であり、各地で講演などをなされています。
でははじめに、首藤先生の方から、「定常社会と新共和主義」についてお話しいただきたいと思います。お願いします。
定常社会と新共和主義―我々の求める新共和主義はなぜ定常社会に基礎を置くかー
首藤信彦(共和バンド代表)
首藤です。「なぜこのような重要な会議を統一地方選挙真っ只中にやるのか」とクレームがたくさんありました。これまでこの研究会シリーズにご参加いただいていた候補者や支援者の方々が、今は選挙活動に血眼になっているなかでの開催で申し訳なく思っていますが、それだけ貴重な機会というわけですので、お聞きいただきたいと思います。
この研究会の内容は、共和バンドのホームページに掲載しておりますし、議事録も掲載したいと考えています。また、時間の都合上、お答えできなかった質問などに関しても、応えられる範囲で、ホームページやFacebook上で回答したいと思います。
さて、新共和主義と定常経済社会がどのように関係しているのかを簡単に話をしたいと思います。いま日本は大変な状況にありまして、世間では安倍政治はダメだとか、野党共闘で安倍政治を倒そうという話が盛んになっています。国会でも議論が行われていますが、残念ながら、それらの議論では安倍政治を倒すことにはならないと思います。
いまの政治はマーケティングの世界になっていて、「いかにして消費者をだますか」という技法を応用して、いかにして「選挙民」「国会議員をだますか」という政治になっています。ここ数年で話題になった戦争法や森友学園スキャンダル、憲法改正論議が本当に日本で最重要な議論かというと、必ずしもそうではない。戦争法が成立したら、すぐ戦争だとか徴兵制だとかおっしゃっている方がいますが、冗談じゃありません。戦争はそんなに簡単なものではありません。徴兵制をやるなら、日本のコンビニや宅配便すべて倒産することになる。我々はこの70年間現実の戦争を知らないで生きてきましたが、戦争というものは簡単にできるものではないです。
では、首藤が一番問題だと思っていることは何かというと、それは、日本が滅びつつあることです。日本は様々な問題で行き詰っており、一方、世界では大崩壊が始まっている。
一つ目の崩壊は、「民主主義の崩壊」です。民主主義は1789年のフランス革命から続いているわけですが、200年以上たって民主主義はおかしくなってきています。特に日本では、今、マスコミでは野党連合と言っていますが、野党をすべて集めても与党の3分の1ほどにしかならない。もう一方の与党を考えてみても、この低い投票率で政権を担っているだけで、国民の大多数は与党を支持していないという恐ろしい状況にあるが、皆さんそれに気づかれていない。少し前までは、日本の投票率は70%前後だった状況から、50%前後まで急落してしまっています。
この状況は世界でも起こりつつあって、日本政治にとって最重要なアメリカは、いまや自国優先の一国主義になりつつある。今までの家父長的なアメリカの姿勢と違うところは、身内殺しや、近隣の人たちを貧しくしないと生き残れないと自覚し行動していることです。
次に、成長社会が終わりつつあることです。その一方で、ビッグデータ、AI、5G、遺伝子工学などかつて存在したことのない要素が誕生して、生産や労働の意味が本質的に変容しています。
この大崩壊のなかで日本がどのように生き残っていくのかが問題ですが、これに関して国会で議論されることはほとんどありません。日本の対極としてよく言われるフィンランドでは、国会に未来委員会がありまして、フィンランドの未来を激しく議論しています。
さて、いまの日本がダメになると、次の日本はどうなるのか。はっきりわかってきたのは、「成長」という概念を変えなければならない。いくら我々が成長しても、日本自体が成長するわけではない。成長も最後には問題を起こします。中国の春秋戦国時代の墨子の理論は、非攻・兼愛ということで、専守防衛を主張していました。同時に彼は成長主義に否定的なのです。経済成長がやがて国家間の衝突を生み出すから、平和をもたらすには成長を止めなければならないと。
日本では、幕末に横井小楠が「富国有徳」という概念を打ち出しました。1840年にアヘン戦争で中国が敗北し、日本にとっては、その一員であった「中華という世界」が滅んだということです。このときに、林則徐の友人である魏源という人が、世界はどうなっているのか、その中で中国(清国)はどうすべきかを提言しようということで、「開国図志」を著し、中国が生き残る手段として「富国強兵」を掲げました。この「富国強兵」の概念が1945年まで続き、そしておそらく今でも習近平さんの頭のなかにはあると思いますが、この概念がアジアを支配してきた。
それに対して横井小楠は、富国強兵を行うとやがて列強と対立が生じて日本は滅びると考え、その代わりに、日本の理念で平和を構築する「富国有徳」を掲げました。そのために日本を共和国にしようと構想していましたが、残念ながら、明治維新の混乱の中でおそらく薩長勢力に暗殺されてしまった。
次に、経済学では1970年代から言われていたものですが、ジョルジュスク・レーゲンの話をお伝えしたいと思います。彼は「熱力学第二法則」いわゆるエントロピーの法則に対し、生物や社会が持っているその方向性を逆転させるネガ・エントロピーすなわち「ネゲントロピー」の法則、つまり、人間でいうと、老い続けてやがて死を迎えるわけですが、それが新しい世代の誕生につながる。彼は生物や社会の「ネゲントロピー」機能に注目をしていたのです。残念ながらこの考え方が今日まで十分に顧みられることはなかった。
フランスのドルーズ/ガタリが「千のプラトー」を著しました。そのなかで、アルブル(樹)とリゾーム(地下茎)を対立概念として用いた。アルブルは樹で、一本の幹からたくさんの葉をつけてまるで爆発するように広がっていくのに対して、リゾームは竹のように地下で広がっていき、地を豊かにしていく。そういう地下茎的社会を考える必要がある。
私たちは「次の政治」を目指すなら、「定常社会」の下に新しい政治を展開していかなければならないと考えました。そこで、広井良典先生の本を読みまして、その概念に感動しました。ここで特に紹介させていただきたいのが『人口減少社会という希望』という本です。人口が減っていることは日本にとってチャンスになる。農村の縮小はチャンスになる。定常社会は単なる停滞した社会に向かうのではなく、日本にとって大きなチャンスになると主張されております。それではぜひ、広井良典先生のお話をお聞きください。
定常型社会=持続可能な福祉社会のビジョンー拡大・成長から持続可能性へ
広井良典(京都大学こころの未来研究センター教授)
皆さんこんばんは。ご紹介いただきました広井です。このような貴重な場でお話させていただけることは光栄ですし、楽しみにしておりました。
先ほどご紹介いただきましたが、私が定常社会に関する本を岩波新書から出したのが2001年ですので、かれこれ20年たっています。当時は経済成長が重要視されていましたので、定常社会に関する批判は受けてきておりますが、最近は人口減少社会になり、縮小社会になっておりまして、逆の方向から、定常社会などは高望みだとの意見もいただくなど、局面が変わってきています。
ただ、国連のSDGsが徐々に浸透してきています。サステナビリティ(持続性)の理念を前面に出した政策のプログラムですけど、企業も主張するようになってきて、世間にも伝わっているように思います。
一方で、日本は相変わらず高度成長期の体験を引きずったままであることは、私からすれば残念です。日本は人口減少のフロントランナーですから、日本こそが定常社会のビジョンを率先的に提起して実現していくようなポジションにあるのではないかと思っています。そこで、定常社会はどのようなもので、本当に望ましいのか、実現できるものなのか考えてみたいと思います。
まず、定常社会の大まかな定義ですが、経済成長を目標にしなくとも、十分な豊かさが実現していく社会のことを指します。言い換えれば、豊かさをどのように捉えるのかというテーマと不可分なものになると思います。定常社会の背景にあるのは、物質的・貨幣では計測できない人間の需要が飽和してきていると。これだけモノと情報があふれる社会で、過剰になっている。このなかで、これ以上増やせと言っても無理がある。ある意味では、人間の本来の欲求を取り戻していくことに意味があると思います。これは内的なものから出てくる定常社会のビジョンになると思います。外的な議論としては、地球レベルで資源は有限であり、限りない資源の消費は外在的に不可能になっている。これに加えて、日本は人口減少社会になっていて、拡大していく社会ではなくなっている。この状況では、おのずから定常社会のビジョンが浮かび上がってくると思います。
第一の意味としては、マテリアルな消費が一定となる社会で、脱物質化という議論は以前からあります。物質的なモノの消費は増えないが、GDPが増えていく社会は考えられる。環境政策でも言われていることですが、資源消費とGDPを切り離そうと。資源消費は増えないが、GDPが増える社会を目指そうという考えがあります。
それに対して、第二の意味として、GDPを増やすことを目指す必要はないとする社会で、脱量的拡大としています。
第三の意味、さらに強い定常社会の考えとして、自然や文化、街並みなど、変化しないものにも価値を置くことができる社会など、定常社会にも様々な次元がありますが、ただ一つを選ぶということではなく、文脈に応じてこれらを視野に入れて考えていくことが大事だと思います。
定常社会には、忘れてはいけない対立軸があり、レジュメで2つの対立軸としています。第二の対立軸としている「成長志向」対「環境(定常)志向」は、富の総量を大きくしていこうとするのかどうかというのに加えて、富の分配に関する対立軸があり、限られたパイをどのように分配するのかという対立がある。戦後、ヨーロッパではこの問題が前面に出た。大きな政府か小さな政府を目指すのかということです。
レジュメの図にも示していますが、大きな政府とは、政府が積極的に再分配をすることが大事であると。小さな政府の方は、マーケットに委ねることが一番いいと。ただ、両者に共通していたのが、どちらも成長志向であったことです。大きな政府の方は、ケインズ政策も含めて、人々の需要を増やしていくことが経済成長につながると。小さな政府の方は、「改革なくして成長なし」と言った小泉改革が典型ですが、マーケットに委ねることで成長すると。
ところが、1970年代ころから、成長志向か環境(定常)志向かというもう一つの対立軸が現れるようになった。この時代は、成長の限界や地球資源の有限が明らかになったころです。
これらの流れを受けて、単純な大きな政府・小さな政府ではなく、環境や定常に軸足を置いた社会の在り方が出てきて、私は持続可能な福祉社会と呼んでいます。
ここで、一つ補足させてもらうと、人間の消費が変わってきていて、17世紀の物質の消費にはじまり、エネルギーの消費、情報の消費ときたが、情報の消費も飽和してきて、時間の消費を迎えている。ケア・コミュニティ・自然などにシフトしていて、貨幣では測れないような人間の欲求が展開されている。
労働や雇用との関係はどうでしょうか。『成長の限界』を出したローマクラブが1990年代に別の報告書を出して、「楽園のパラドクス」という、いまのAIを先取りしているような面白い議論をします。生産性が最高度にあがったところでは、皮肉にもほとんどの人が失業するという。ここでいう生産性は労働生産性のことで、少ない労働ですべての人の需要を満たすことができるので、おのずと失業すると。そうなると、労働に従事できる人に富が集中しますから、大幅に格差の問題が浮かび上がってくる。
現在の日本に当てはめれば、人々が競争に駆られて、働けば働くほど失業率が上昇し、過労になるという悪循環になってしまう。そこで、労働生産性から環境効率性、または、資源生産性へということで、人を積極的に使って資源消費や環境への負担を減らしていき、人が人をケアする経済という方向が浮かび上がってくると思います。
ここで、私が受けてきた定常型社会論への批判をご紹介したいと思います。当然挙がってくる疑問ですが、定常型社会は変化や進歩が止まった退屈で停滞した社会ではないかと。私の答えは“NO”であって、2001年の本では、音楽CDを例に挙げています。今では、インターネットでのダウンロード数などを例にするといいかと思いますが。。。CDの売り上げが増えないとしても、ヒットチャートの中身は変わっていくわけだから、変化はあるわけです。モノが増えないと変化がないというのは、モノの経済にとらわれている発想であって、現在は情報の経済ですから、量が増えないことが停滞や変化がないことを示すわけではない。
人類の歴史で見ますと、定常型社会は文化的創造の時代と言ってもいいと思います。京都は人口が増えているわけではないが、京都が停滞していると思う人はほとんどいない。量的拡大にとらわれていることこそがクリエイティブではないと思います。現在、GDPを600兆円にすると掲げて、統計データをいじったりしていますが。。。営業のノルマも同じで、まったく創造的でない。義務としての経済成長から人々を解放するということです。
次は、経済成長を一切否定するのかという批判があります。GDPが増えるのはけしからんというわけではなくて、最優先政策にGDPの増加を掲げない。個人の自由な創発を実現しよう、あるいは、子育てと仕事の両立ができる真にゆとりがある生活ができるようにすることを政策の上位に掲げた結果、経済成長することはあり得ると思います。以上が定常型社会の基本論です。
続いて、定常経済論の系譜についてお話したいと思います。もちろん、定常経済論は私が最初に唱えたわけではなく、大きな流れが3回ほどあった。最初が古典派経済学を形成し、自由論で知られているJ.S.ミルは、共産党宣言が出された1848年に、古典派経済学の集大成とされる『経済学原理』を出して、「定常状態」論を展開しています。ミルの議論の面白いところは、定常状態をポジティヴなものとして論じているところです。定常社会は不可避であり、人を踏みにじるところから定常状態になると、人間は幸せになれるという議論をしています。
疑問として、ミルがこの時代になぜこのような議論をしたのか。この時代は、工業化社会が本格化する入口のところで、まだ農業が中心の時代だった。ミルが念頭に置いていたのは、農業の基盤である土地には有限性があるから、いずれは定常状態に達するというものだった。しかし、実際にはイギリスで工業化が進展して、各地を植民地化していったことで、ミルの考えていた限界を飛び越えて経済が成長し、ミルの議論は忘れられていったのです。
ミルの議論を復活させたのが、1972年のローマ・クラブの『成長の限界』です。これは有名な割に読んだことがある人があまりいないという報告ですが、一言で言えば、「工業化の地球的限界」が核心にあるテーマだったと思います。この議論は広まりましたし、1970年代はGNPに代わるものを考える動きが活発になっていた。しかしながら、この議論も80年代以降の情報化・金融グローバル経済の展開のなかで忘れられてしまった。
さきほど幸福の話もありましたが、GDPでは本当の幸福度を測ることができないと。ブータンのGNHもありますし、東京都荒川区が10年ほど前から唱えているGAH(グロス・荒川・ハピネス)、高知県経済同友会によるGKHもあります。高知の県民所得は沖縄と並んで最下位ですが、森林面積率は日本一であるとか、アルコール消費量が1位であるとか。。。要するに「豊かさ」を単一の指標では測ることができないということです。なお、民主党政権のときに、内閣府の幸福度に関する研究会に、委員の一人として参加させていただきました。GAHは概念を唱えているだけではなく、シンクタンクを設けて、46項目に関する指標を作成している。これに基づいて調査が行われて、政策立案も行われています。
次に、私は長い時間軸で見ることが好きなので、人類史のなかの定常型社会に関してお話をさせていただきたい。歴史のなかで、人口と経済が拡大した時期と成熟化した時期が繰り返されている。20万年前にホモサピエンスが現れて狩猟や採集を行っていたが、資源の制約にぶつかった。一万年前には、メソポタミアを中心に農耕が発達して、人口と経済が急激に拡大した。これが成熟して中世の時代を迎える。三番目の拡大が、いわゆる近代の工業化社会です。ちなみに、アメリカのデロング(Bradford DeLong)という経済学者が超長期のGDPをまとめたデータがありますが、似たような傾向がみられると思います。
では、なぜ人類の歴史のなかで、人口や経済が拡大する時期と成熟する時期があるのかという疑問が生まれますが、端的に言えば、エネルギーの利用形態、強く言えば、自然の搾取の高度化です。
ここで強調したいのが、定常型社会は文化的創造に富む時代であると。最近の考古学では、「心のビックバン」と呼ばれている現象があります。洞窟の壁画などが急激に現れたのが5万年前で、これが「心のビックバン」です。ホモサピエンスが生まれてからこのようなことはなかったのに、この時期に一気に出てきている。日本に当てはめると縄文期です。私が好きな八ヶ岳に縄文土器遺跡群があって、現代アートにも通じるようなものです。人間は資源を消費するだけではなく、新しいものを作って実用性を超えた創造性を発展させていくことが大切ではないかと。独自の人間の心の領域が生まれたのがこの時期だったと思います。
いま述べたのは、狩猟・採集の時代の成熟期ですが、農耕期の終盤にもこのような動きがあったはずで、私が思うには、紀元前5世紀前後の枢軸時代の精神革命がこれにあたるのではないか。現代に通じる普遍的思想であり、ギリシア哲学やインド仏教、中国の儒教や老荘思想、中東ではキリスト教の原型となったユダヤ思想が地球上の各地で同時多発的に生まれた。これらの思想は、幸福の意味を再定義したものでもありました。ソクラテスのたましいの配慮、中国の仁・徳など。これらは物質的生産ではなく、新しい価値を生み出したものであったと思います。最近、環境史という分野があって、この時代は森林が枯渇したり、土壌が侵食されたりと資源的限界が顕在化してきた時代であったことが分かってきた。まさに、農耕期の拡大期から定常期への転向期に精神革命が起こったということです。
今までの話を近代に絞ると、資本主義・ポスト資本主義というものが浮かび上がってきます。GDPが飛躍的に大きくなったのは16~17世紀で、資本主義・工業化を中心とする時代でした。
資本主義は何かという様々な議論がありますが、イコール市場経済ではない。市場経済は古代からあるわけで、私のシンプルな資本主義の理解は、市場経済プラス限りない拡大・成長への志向であると。この「拡大・成長」といういことが可能になったのが、イギリスが植民地獲得に乗り出したことにあると思います。
さらに大きいのが価値観が変わったことだと思います。「私利の追求」を肯定するようになった。バーナード・マンデヴィルという思想家が『蜂の寓話』という本を書いていて、貪欲や放蕩こそが社会全体の利益をもたらし、節約はかえってマイナスになると。私利の追求でパイが拡大し、ほかの人々の利益も拡大するという循環を示したのが、副題の私的な悪徳が公共的な利益につながるという常識破壊的な考えを示したものでした。
ただ、マンデヴィルが生きた時代とは逆の時代に私たちは差し掛かっているのではないか。リーマンショックがあって、その後は一時的に回復したと思われたが、その後は低成長になっている。このようななかで、人間の利他性や協調行動が強調され、様々な分野で議論されはじめた。ただ、私はこの議論を引いた眼で見ると、人間の観念や思想、倫理は、ある時代状況における人間の生存を確保するための手段として生まれてくるのではないかと。つまり、このような議論をしないと、人間の存在が危うくなるのではないかと。
しかし、このような議論に対して、第4の拡大・成長はあるのかという話がある。あるとすれば、3つの可能性が考えられる。1つめは人工光合成で、人間自身がエネルギーを創り出すと。2つ目は地球脱出あるいは宇宙進出、3つ目はポスト・ヒューマン(人間そのものの改造)である。ただ、これらは根本的な解決にはつながらず、地球や人間の有限性を踏まえたうえで、新たな豊かさ、あるいは、持続可能な福祉社会を構想する必要があるのではないかと思います。
ここからは、どのような社会を目指すのかということをお話させていただきます。はじめに分配の話です。格差所得(ジニ係数)の国際比較では、残念ながら日本は先進諸国のなかで格差が大きいグループになっている状況にあります。
資本主義と一口に言っても、アメリカとヨーロッパでは方向性がかなり違っていると思います。アメリカに3年滞在していた時に、このような社会になってはいけないという典型例であると感じたわけで、強い拡大・成長志向で小さな政府を志向している。一方のヨーロッパでは、環境志向で、国によって差はありますが相対的に大きな政府です。ヨーロッパは定常型社会に近づいていると思います。日本が最終的にどのような姿を目指していくのか問われていると思います。
このような状況で、いまは2つの道の岐路でせめぎあいの時代であると思います。1つは、トランプ現象に見られる強い拡大・成長志向と一体となったナショナリズムと排外主義であり、もうひとつは、ドイツ以北で明確なローカルな経済循環や共生から出発し、持続可能な福祉社会を志向する方向です。これらは、ともにグローバル化の先の世界のことですが、違った方向を示している。
持続可能な福祉社会のポイントは、環境と分配の問題、つまり、総量と分配の双方を視野に入れるということです。環境と福祉それぞれの指標で国際比較をすると、興味深いことに福祉が充実していて平等な国々は、環境のパフォーマンスも良い。一方で、アメリカや日本は格差を示すジニ係数が大きく、環境のパフォーマンスも悪い。おそらく、アメリカや日本は支え合いが少なくなっているので、パイを拡大する以外に人々が豊かになる術がなく、すべて経済成長で物事を解決しようとする方向に行く。
ここからは、まとめつつ、持続可能な福祉社会の具体的イメージ例をまちづくりの観点からお話しようと思います。ドイツのエアランゲンという人口10万人の地方都市ですが、写真にもあるように、車をシャットアウトして歩行者だけがいます。日本では、このくらいの規模であると、残念ながらシャッター街になってしまっている。人口10万人の規模でこれほど活気があるのは、日本では考えられない。エアランゲンのような姿を実現していくことが、持続可能な環境や福祉、経済にとってプラスになる。
続いては、ハノーファー、インダストリー4,0で、IoTのメッカの一つの都市で、すべてがハイテク化されたイメージがありますが、実際はそのようなことはなく、車は見当たらず、人々がゆったりとした時間を過ごせるコミュニティ空間がある。
日本では、効率化やハイテクばかりが追求されますが、このようなコミュニティなどを重視するまちづくりが、広い意味での経済にもプラスになる。ちなみに、各地でコミュニティ空間を重視した、あるいは、楽しめるまちづくりが行われている場所もある。
岐阜県の石徹白地区では、小水力発電が行われている。結局、グローバルな問題も、資源の奪い合いから生じるので、地域でエネルギーや食糧を作れるようになれば、グローバルな問題の解決にもつながる。自然エネルギーによる地域再生や、これからの時代の豊かさをめぐる物語である「おだやかな革命」など、見直す動きは出てきている。参考までに、千葉大学の倉阪先生が進めている「永続地帯」の研究もあることを紹介させていただきます。
私は鎮守の森プロジェクトというものを進めておりまして、全国にそれぞれ約8万ずつ存在する神社・寺院を、自然エネルギーの分散的整備と結び付けていけないかというものです。ご関心のある方は、鎮守の森コミュニティ研究所のホームページをご覧いただければ幸いです。
このようなポスト情報化というか、ローカライゼーションが定常型社会・持続可能な福祉社会像と結びついてくると思います。
最後に、グローバル定常型社会の展望です。高齢化の地球的進行(グローバル・エイジング)のなかで、どこがより高齢者が多くなるかというと、全体の3割が中国、中国を除くアジアで3割と予想されている。
人口が最も多い中国も、一人っ子政策の影響もあり、2025年に人口がピークになると考えられています。2100年の人口予想では、トップ10のうち5つがアフリカになっていていることから、アフリカにも資本主義が到達してゴールを迎えるという見方もできると思います。人口学者のルッツ(Wolfgang Lutz)も、「20世紀が人口増加の世紀であったとすれば、21世紀は世界人口の増加の終焉と人口高齢化の世紀となるだろう」と言っていますが、まさにその通りだと思います。
私は、21世紀後半におけるグローバル定常型社会について、高齢化が高度に進み、人口や資源消費も均衡化するような定常点に向かいつつあるし、そうならなければ持続可能ではないと思っています。
さきほど、首藤さんが紛争の話をされましたが、戦争による死者数の推移が示しているのは、経済成長が加速するのに伴って戦争死者数が増えていることです。人口増加がもっとも大きかった20世紀が戦争死者数の絶対数、割合ともに最大です。 考えてみれば当然ですが、皆が拡大・成長をしようとすれば、そこでクラッシュが生じて戦争が起こるわけです。21世紀の希望としては、人口が減少して定常化しているので、戦争が収まるのではないかと。
私としては、地球倫理、心のビックバンや枢軸革命・精神革命に匹敵するような思想が必要になってきているのではないかと思います。日本は人口減少のフロントランナーであり、東と西、南と北を結ぶ位置にもありますので、持続可能な福祉社会というものを先導的に実現していくべきであろうと。ご清聴ありがとうございました。」
小林正弥(千葉大学教授)
「広井先生ありがとうございました。私の方から、今までの研究会を踏まえた質問をさせていただきたいと思います。この研究会では、コミュニタリアニズムと共和主義、ポジティヴ心理学を中心として、幸福の話をしてきました。ポジティヴ心理学の創始者であるセリグマンと、エド・ディーナーが「貨幣を超えて」という有名な論文を発表していて、幸福度を見るうえでGNP指標だけでは不十分で、幸福指標を導入するべきと主張しています。これは広井先生と同じです。
ここからが質問ですが、私は広井先生と同じプロジェクトをやっているときに、さほど定常社会という言葉を使わずに、持続可能な福祉社会という言葉を使っていました。やはり、定常という言葉は、成長が入っていないと誤解されやすい。例えば、ポジティヴ・サイコロジーでは、フローリッシュという開花して発展していくとしていて、人間は善き生き方をして発展していくと。これは経済発展を意味するわけではないが、イメージにはエンパワーメントなどがある。人口減のなかでGNPが拡大するのは難しいが、日本の現状でも、一人一人の心理的な活性による開花も経済的にもメリットがあるのではないか。この辺りのコメントをいただきたいなと。
それから、今日は福祉社会の具体的な中身については説明されませんでしたが、福祉政策は自助・扶助・公助の議論をなさっていて、我々のプロジェクトの議論では、それらがリベラル・コミュニタリアニズムに近いとされていますので、そのあたりを解説いただければ、今までの研究会とつながってくるのでお願いしたいと思います。」
広井良典(京都大学こころの未来研究センター)
「小林先生から、この問題の本質・核心に迫る質問をいただきました。1点目に関しては、基本的に定常型社会は、コミュニタリアニズムやポジティヴ心理学、幸福と親和性が高く、理論上もつながってくるものだと思います。
リバタリアニズムは市場経済を拡大させていこうとする思想で、リベラリズム、ヨーロッパでは社会民主主義ということになりますが、これは市場経済プラス政府による公助という思想になります。今日お話したように、これらの思想はいずれも経済成長を志向しているのに対して、コミュニタリアニズムは伝統を重視したり、貨幣では測れないような人間の欲求が幸福にもつながってくると考える。すなわち、限りない拡大成長ではなく、自然やコミュニティなどの持続可能性に価値を置く。つまり、定常型社会とコミュニタリアニズムやポジティヴ心理学などは重なり合っている。
それから、フローリッシュ(開花・持続的幸福)の話です。定常型社会は停滞しているというニュアンスが含まれますので、注意はしないといけないと思いますが、基本的な考え方としては、個人が自らの内側から湧いてくる創造性を発揮できるような社会のことですので、フローリッシュとつながってくる。
ただ、幸福政策ともつながってくると思いますが、幸福というのは個人によって多様的で内面的なものあるので、政策や行政がかかわるのはおかしいのではないかという批判があります。これはリーズナブルな批判で、人間の幸福はピラミッド型で多次元であると思っています。基本的な生活や身体の安全がベースにあり、その上に承認など社会的な欲求、そしてさらに自己実現の欲求という具合で、マズローの議論に似ている。だから、幸福の基盤の整備は公的に保障するべきであると。コミュニティ政策という点も含めて、幸福のいわば基礎条件を整備することが、公共政策において重要なことだと思います。これが2つ目の質問の自助・扶助・公助にも関わってくると思います。」
小林正弥(千葉大学教授)
「ありがとうございました。フロアより質問をいただきましたので、時間の関係上3つだけ取り上げさせていただきたいと思います。1つ目は、AIが発達した社会で、定常型社会はどのようになるかをお聞かせくださいという質問をいただきました。レジュメにもAIのことが記載されていますので、ごく簡単にお願いします。」
広井良典(京都大学こころの未来研究センター)
「AIが発達した社会と定常型社会の関係はどうなのかというのは、鋭い質問だと思います。日立京大ラボと私が行った共同研究の政策提言を2017年9月に公表しました。日本は、2050年には持続可能ではなく破局シナリオに向かってしまうのではないかということで、AIを活用したシミレーションをしました。都市集中型か地方分散化が日本の大きな分岐点であり、人口や地域の持続可能性や幸福、格差、健康という観点から地方分散型が望ましいという結論をAIが出しました。最近はAIの言うことなら聞くという人もいるかも。。。AIも一極集中ではダメだと言ってます。
いずれにしてもAIをめぐる議論が盛んですが、私はこれからの時代のキーワードは「ポスト情報化」だと思っています。私自身は確信を持っていますが、情報化といわれ続けてAIが過剰評価されていると思います。情報理論の基礎を作ったシャノンという人が、1950年ごろに世界はすべて0と1で表せるという世界観を出した。技術というのは基礎理論ができて、応用技術となって、それが社会に普及していく。私からすると、インターネットの普及なども成熟期に入っている。結論としては、17世紀以降、科学の基本コンセプトは物質、エネルギー、情報ときて、次は生命・ライフに移ろうとしていると。ライフは生命のほかに、生活、人生などの意味がある。ですから、今後はポストAIの時代として、時間の消費など新たな局面に入ってくると思います。」
小林正弥(千葉大学教授)
「ありがとうございます。次は政治経済の質問です。持続可能な福祉社会において、議会や選挙などの制度はどのような状況になるのか。経済と倫理の分離と再融合についてもスライドを作成されていますが、これも大事なポイントだと思いますので、付け加えてお答えをお願いします。」
広井良典(京都大学こころの未来研究センター)
「政治に関しては、定常型社会はおのずと分権型社会になります。拡大・成長は一極集中型になるというのは、パラレルになっています。経済を拡大させることと人口が増えること、集権型になるのは表裏一体のことである。定常型社会では逆のことがいえる。
次に、経済と倫理の話です。最近は企業の不祥事の話が連日のように出ますが、どこかで無理をする構造になっているから、このような社会になってしまっているのではないかと思います。経済と倫理というと、異質なものを並べたように思われますが、日本においては近いものであった。二宮尊徳などは誤解されていることも多いですが、今で言うと地域再生コンサルタントという感じで、過疎の村の再生などをやっていたわけですが、経済と道徳の一致ということでした。
日本資本主義の父といわれた渋沢栄一が言ったビジネス(算盤)と倫理(論語)が一致しなければビジネスは永続しない、つまり、現代風に言えばビジネスと倫理が一致すれば持続可能であるということ。これが高度成長期になると変化して、モノが不足していた時代だったので、モノを行き渡らせる経済ビジネスがある意味で福祉を実現することになっており、ビジネスと倫理がおのずと一致していた。ところが、1980年代から、経済と倫理が乖離し始めて、格差拡大などが問題になった。
希望を込めて言うと、定常型社会は、経済と倫理が再融合していくと。最近の若い人は、ソーシャルビジネスとか、以前の経済と倫理が一致していたころの経営者の理念と共鳴するようなことを言っている。経済が拡大していないので、今までのやり方では企業と個人が首を絞め合うことになるので、おのずと経済と倫理が一致してくる。
拡大・成長ではなく、持続可能で相互扶助・循環型の定常型社会を目指すというのは、とっぴなことを言っているとは思っていない。日本の経営者に対して、急激に成長するのと、長く続くのとどちらを選ぶと聞いたら、多くは後者を選ぶと思います。定常型社会の経営は、日本社会になじみやすい部分もあると思います。」
小林正弥(千葉大学教授)
「ありがとうございます。最後の質問は、文化の領域に関することです。定常型社会における学校教育はどのようなものになるのか。ゆとり教育になるのか、成績をどのようにつけるのか、競争がなくなった時に科学の進歩がなくなるのかなど。
今日は、心のビックバンや精神革命などの精神的なものに関する話がありましたが、それに結び付けて回答をお願いします。」
広井良典(京都大学こころの未来研究センター)
「教育に関する私の考えは、人口増加や高度成長期はいわば集団で坂道を登る社会で、良くも悪くも1本道であった。ただ、定常型社会は峠を越しており、集団で1本の坂道を登る教育が転回される。
最近、多様化ということが言われていますが、高い山を登り切ったので、後は好きなことをやって、それぞれの力を発揮するのが理想だと思います。そこで、競争が完全になくなるというのはないと思いますし、競争を全面的に否定するつもりはありませんが、そもそもモノサシが多元化していくのが定常型社会です。」
小林正弥(千葉大学教授)
「ありがとうございました。フロアからたくさんの質問をいただいておりますが、時間の都合上、ここまでとさせていただきたいと思います。
最後に、鳩山先生の方から、広井先生の講演を踏まえて、総括をしていただきたいと思います。よろしくお願いします。」
鳩山友紀夫(東アジア共同体研究所理事長・共和バンド顧問)
「みなさんこんばんは。大変有意義でしたよね。私も大変学ばせていただきました。最近は新元号の令和の話題に尽きているような気がして、メディアが令和に取り付きすぎているように思います。もっと静かに新たな元号を迎えるのがよろしいのではないかと思いますが。私は安倍首相がしゃしゃり出てくるのはいかがなものかと思います。平成から令和に向かうときに、平成を総括する必要があると考えます。特に平成の最後を担い、令和の始めも担うのが安倍政権であるならば、安倍政権は何なのかを学んでおく必要があると思うのです。
今日の広井先生のお話を、私の視点から申し上げますと、日本は外交において対米従属になっている。このまま従属関係を強化させてしまう国でいいのか、それとも、東アジアと協調する政策に変えていくのかというのが一つ。それから、財政・金融に関しては、あまりにもぐちゃぐちゃになっている。この状況に歯止めをかける方法を見出すことは可能なのか。
今の日本の外交・財政は、「大日本主義」がもたらしたものであると思っています。いわゆる、強いとか、大きいとか、成長を求めていく日本から、安定のなかで一人一人が幸せを享受できる社会にどのように変えていけるのかが、令和の時代に我々に課された課題ではないかと思います。今日のお話のなかにヒントを見出せるのではないかと思います。外交、内政の双方で、同じ方向性を導き出せるのではないかと思っております。
小林先生もコミュニタリアニズムや共和主義の話をされましたが、共和というのは、美徳を一人一人の構成員が持っていなければならないということです。民主主義では、必ずしも一人一人に徳を求めているわけではありませんから、下手をすれば衆愚政治に陥ってしまう。さきほどのサステナビリティを目指していくには、一人ひとりが自生しないとできない。あるいは、国と国のあいだで、自分勝手な国があれば、うまく定常社会になっていくわけがないわけで、大事なことは、国としても倫理性や徳が求められているということで、そうでなければサステナブルの社会を作ることはできない。
サステナブルな社会をヨーロッパが作っていることは、EUという仕組みができていて、それぞれの国がそれなりに協調性を持つ環境が生まれてくるのではないかと思います。私はこのような発想を、東アジアのなかで作っていくには、私の持論でもある東アジア共同体のようなものを作り上げていくことが、定常社会を作ることにつながると思います。
内政においても、一人一人の倫理性が求められていて、その理念のもとに行動することによって持続可能な福祉社会が作られていくのではないかと思っています。今日はこのような発想で勉強させていただいて、まさに脱大日本主義へ向かえということと、定常社会を目指せ、というのが私のなかではマッチしたと思った次第です。
私は、平成の時代にみなさまのご期待をいただいて政権交代を果たしたときに、総理大臣を務めさせていただいた人間です。友愛を徳だと思っており、友愛社会を作りたいと思っていましたが、必ずしも成就せず失敗をして、結果として自民党政治に戻してしまった責任があると思っています。私は政治の世界から離れてしまっていますが、このような安倍政権の惨状を憂いています。アベノミクスは定常社会に向かうのではなく、いかにして経済成長をやり遂げるかと言っているわけですから。
このような政権から早く脱出するために、私も責任があるひとりであると感じております。政治から離れている身ではありますが、新しい元号である令和も発表されましたし、我々は令和よりも「共和」の方が良いと思っていますが、残念ながら共和にはなりませんでしたが。。。新しい時代にふさわしい共和の時代を作るために、政党なり、何らかの形で新しい政治的活動を起こしていかなければならないと感じています。みなさまにも、一人一人のお考えを何らかの形でお示しいただいて、未来に向けて一人一人が幸せをつかんでいけるような社会を作っていきたいと思っているなかで、広井先生のお話をお聞かせいただけたことに感謝を申し上げ、私からのメッセージとさせていただきたいと思います。ありがとうございました。」
小林正弥(千葉大学教授)
「鳩山先生ありがとうございました。「令和の時代に共和を」というスローガンではありませんが、新しい政治運動のご発言もありました。広井先生もたくさんのお話をまとめていただき、質問にもお答えいただいてありがとうございました。」
首藤信彦(共和バンド代表)
「小林先生も名司会ありがとうございました。日本社会のすべてが忙しい段階で、先生方も大学が一番忙しい時期で、皆様もそうだと思いますが、そのようななかでお越しいただいてありがとうございました。それにふさわしいレクチャーだったと思います。最後に、鳩山さんの強いメッセージもいただきまして、我々は希望をもって定常社会に向けて頑張っていけると思います。今日はありがとうございました。」